ル・コルビュジエ以来、近代建築はそれまでパリ郊外に新天地を求めて開発がなされ、マルヌ・ラ・ヴァレ、セルジー・ポントワーズ、サン・カンタン・イヴリン等のニュータウンが作り出された。ペローの最初の作品もこの流れの中に位置する。しかし、80年代に入ってパリは周知のグラン・プロジェ以来、パリの各地区で改造が進められている。特に90年代にはいってフランスの都市創りが郊外のニュータウンよりも歴史と共に築かれた都市中心部の、あるいは街区の綻びた都市網(Tissue Urbain)をいかに繋ぎあわせていくかといった都市改造に政策の中心が移っている。

二作目以降、ペローの建築にはこういった新たな都市政策が背景にあった。パレ・ロワイヤルの中庭のスケールをレファランスにし、セーヌ河からの空間の延長としてBibliothèque de Franceの中庭を計画している。これはパリ東部のセーヌ河左岸開発計画の中心となるもので、彼が学んだ歴史観とパリ全体という都市を見据えた上で計画されたものである。

 

そういった意味において、彼の建築は個人の表現というより、非常にアノニムである。68年世代が過去に対する抵抗として個人を強く押し出しているのに対して、協調的である。彼の用いるマチエール、表現あるいは彼のレトリックは個性の表出を避けているようにさえ受け止められる。これはこの世代の特徴かもしれない。また、これがフランスの文化かもしれない。建築が個人の表現である以前に、都市を作っていく手段としての建築が求められるのである。既に述べたフランス建築界にある異なった動きは表現の違いであって、都市を構成する建築を試行しているという点では共通しているといえる。

 

 

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